真言宗智山派
〔沿革〕
空海入定後、益信と聖宝の二僧が出て、二つの門流に分裂。益信(826~906)の門流から宇多法皇が出て、御室仁和寺を創立し、聖宝は山科に醍醐寺を造立。益信の系統を広沢流、聖宝の系統を小野流とよび、これらの法流はさらに分派、広沢六流、小野六流となり、これらを野沢根本十二流という。平安中期以後、興教大師覚ばん(1095~1143)が出て、広沢流のなかに伝法院流を建て、鳥羽上皇の信任を得て高野山に大伝法院、密厳院を建立、教学振興を計った。後に高野山側と相容れず、覚ばんは根来山に下り、高野山系と別の学灯をなした。しかし兵火で伝法院は灰燼と化し、時の学頭智積院玄宥は、この地に智積院再興の基礎を確立した。天正年間、玄宥がその宗意を宣揚して以来、その法脈を行う。
〔教義〕
宗祖弘法大師、中興の祖興教大師の教説によって、顕密に教を対弁し十住心を建立して、瑜伽の観行を修習し、生仏一如の深旨を発揮し即身に成仏を期す。教義的には大日如来を教主とし、曼荼羅世界と現実世界は同一であるという教えであり、大日如来と帰一するため、心を本尊と同じくする三密行を行う。
『現代仏教情報大事典』より引用
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